宮 定吉 SADAKICHI MIYA
盛岡の職人の家庭に生まれる。
明治中期にそれまで裕福な階級のものでしかなかったお茶の習慣を、庶民のためのものとするために、自ら「宮鉄瓶店」を盛岡市紺屋町に構える。当初は昔ながらの職人達に嘲笑されもしたが、日常的に使用する為の生活の道具としての南部鉄瓶の製作を最初に始めた人物。
しかし、昌太郎 18歳の時に若くして逝去。
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宮 昌太朗 SHOTARO MIYA
国立仙台工芸指導所第二部金工に二度入所。同所は「工芸の科学化、大衆化、輸出化」を標語として指導していた。戦後の生活様式の変化により、鉄瓶自体の需要が落ち込む中、「クラフトデザイン」の考え方を取り入れ、自らも日本デザイナークラフトマン協会の設立に参加。日本の工芸とデザインを結びつけた第一人者として尽力。
「鉄器はいま、彼の先駆的業績で、国際的に日本を代表するデザインのひとつとなった。」と評された。
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宮 伸穂 NOBUHO MIYA
現 釜定代表。金沢美術工芸大学、東京芸術大学大学院へと進み、作品制作と平行して素材についての研究も深める。和銑による釜の制作や、A.D.I(超強靭鋳物製造)の特許取得など、伝統技術を継承しつつも現代感覚をとりいれ、生活の道具としての鉄器作りをめざす。海外での活動も盛んで、数々の賞を受賞。また、国内でも国宝の修復及び制作、岩手県卓越技術者表彰、伝統工芸士認定と活躍。機能を見極め、極限にまでそぎ落としたかたちに円熟の技が光る。
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